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2012年4月

2012年4月30日 (月)

昭和31年の話題

Img_00627万円以下になったテレビの例と太陽族

[出来事]  東海道全線の電化完了

       天竜川に建設していた佐久間ダムが完成

[話 題]  ダイヤル「03」で市外通話が可能になる

       東京・新宿と大阪・梅田に「コマ・スタジアム」完成

       昭和18年に消失した大阪通天閣が復活

       日本のマナスル登山隊が登頂に成功

       ボナンザグラム(虫食い文章クイズ)が大流行 

       「鉄人28号」が雑誌「少年」に掲載大人気になる

       「週刊新潮」が出版 週刊誌発行ブームになる

       子供の遊び道具「ホッピング」が日本中に流行る

[NHK関係] テレビの受信契約数が30万を超える

       チロリン村とくるみの木 お笑い三人組

[民放テレビ] スーパーマン(TBS)   名犬リンチンチン(NYV)  鞍馬天狗(TBS)

                赤胴鈴之助(TBS)  少年探偵団(NTV)

[テレビCM]  伊東に行くならハトヤに決めた 毛糸の赤ちゃん(鐘紡)

[スポーツ] オリンピックメルボルン大会で日本選手が金4個、銀10個、銅5個獲得

[ファッション] 太陽族スタイル 慎太郎刈り アロハシャツ サングラス マネービル

[流行語] 一億総白痴化 ノイローゼ 戦中派 ロックンロール 深夜喫茶

[新会社設立] 西友ストア

[新商品] 脱水装置付き電気洗濯機 

       セイコー自動巻きウォッチ サッポロビール

[流行歌] ここに幸あれ 若い巡りさん 愛ちゃんはお嫁に どうせ拾った恋だもの

       りんご村から 哀愁列車 ケ・セラ・セラ ラジオ体操の歌

[映 画] 太陽の季節 真昼の暗黒 ビルマの竪琴 理由なき反抗 ジャイアンツ

[出 版] 挽歌(原田康子) 太陽の季節(石原慎太郎) 四十八歳の抵抗(石川達三)

2012年4月29日 (日)

東海道線オール電化

Img_0061東海道線電化と東京開都500年の切手

東海道本線は日本の代表的な路線で、全線が開通したのは大正3年(東京駅開業)です。さらに昭和9年に丹那トンネルが開通し、昭和39年の新幹線開通まで活躍しました。この時点で丹那トンネルのために並行して電気機関車の開発が進められており、この区間だけ電化が完了していたことになります。

現在の東海道本線はJR東日本、JR東海、JR西日本に跨って運営されています。

東海道線が全線電化が完了したのは昭和31年で東京ー 大阪間の所要時間が約7時間30分になりました(それまでは約8時間)。

この年は江戸城が築城されてちょうど500年になり、毎年10月1日を「都民の日」としてお祝いをしておりますが、はからずも「開都500年」として重なる日となりました。


2012年4月28日 (土)

昭和30年の話題

Img_0056当時の東京・有楽町界隈(クリックで拡大)

[出来事]  神武景気

        日本銀行から初の1円アルミ貨と50円ニッケル貨(穴なし)を発行

        小学校で1年生にひらがなから先に教える

        日本住宅公団が不燃性集合住宅を全国規模で建設が始める

[話 題]   東芝が自動電気炊飯器(電気釜)を3200円(6合炊き)で発売

        東京通信工業(現ソニー)から日本初のトランジスター式ラジオ(18900円)発売

        超大型ワイドスクリーン「シネラマ」を東京と大阪で公開

        ラジコン模型自動車(4500円)を増田屋から発売

        船橋ヘルスセンターがオープン

        イギリスで世界一記録をまとめた「ギネスブック」を出版

[NHK番組] 私の秘密(テレビ) お笑い三人組(最初はラジオ 翌年からテレビにも)

 

[テレビCM] 「明るいナショナル」「かん かん カネボウ」「くしゃみ3回 ルル3錠」

        「なんであるアイデアる(折りたたみ傘)」

[スポーツ] 本田技研(オートバイ)がマン島で完全制覇

[ファッション] Aライン Yライン マンボスタイル ビキニスタイル ポロシャツ

[流行語] ボディビル ロックンロール カルチャーセンター

[新会社] ヤマハ発動機 近畿日本ツーリスト

[新商品] トヨペットクラウンRS発売

       理研光学工業から「リコピー101」を138,000円で発売

       松下電器から電気シェーバー発売

[流行歌] 田舎のバス この世の花 月がとっても青いから ちいさい秋みつけた

[映 画]  浮雲 野菊の如き君なりき ここに泉あり エデンの東 慕情 旅情

[出 版]  広辞苑(新村 出) 指導者(本田顕彰) 不安の倫理(石川達三)

2012年4月27日 (金)

生活の中に子供たちの遊びがもどってくる

Img_0055昭和30年頃の子供たち

終戦後、庶民の台所は食糧などの調達に追われる生活や、日ごとにつり上る物価の変動の中で子供のことまで手が回らない毎日でしたが、昭和25年を過ぎる頃から、子供の遊びの中に昔のおもちゃや新しい工夫が入り込んできました。

かって、親たちが遊んだベーゴマ、めんこ、ゴム跳び、縄跳び、ビー玉、お手玉、けん玉などの伝統的なものから、自分たちが工夫した新しいゲームも加わって、上の写真のようなプラスチック製の「チェリング」などが生まれて来ました。さらには、キッチンセットや電話機などの日常的な道具なども出現します。

そして、「もはや戦後ではない」との合言葉が叫ばれ、玩具業界はホッピング(31年)やフラフープ(33年)などの出現で全国的な規模で拡大、昭和37年には第一回日本玩具国際見本市(その後の東京おもちゃショー)が開催されてそれまで家内工業的市場だった規模が新鮮味があふれる業界に発展することになります。


2012年4月26日 (木)

ラジコン自動車の発売

Img_0051ラジコンは子供たちの大人気

昭和30年に、日本のおもちゃ界に初めてラジコン(電波でコントロールする自動車)が走りました。デパートのおもちゃ売り場に子供たちが押し寄せて大反響に・・・・・・。これは日本だけでなく世界にも最初の出来事で海の向こうでも話題になって引き合いが殺到しました。

無線で自動車をコントロールすることは当時としては画期的なことで、この年は日本で最初のトランジスターラジオが発売されて世界の注目を浴びたばかりでした。

売り場では、子供たちが順番を争ってコントローラーを奪い合い、夢中になりましたが、価格はかなりになっており、おいそれと買えるおもちゃではなかったようです。ラジコンと言いながら真空管やトランジスターを使ったメカニズムではなく、リモコンのスイッチを押すと電気的に火花(外部からは見えない)が出て、そこから電波を出して離れた場所にある自動車のアンテナに送り、前進、後退、右折、左折の操作を繰り返すものでした。昔の無線機は火花式と言われていましたが、その小規模なものです。

その後、トランジスターが実用化されると、特にラジコン用に許される周波数を用いて実際に電波を飛ばしてコントロールする本格的なリモコン模型(飛行機や船など)が普及することになります。


2012年4月25日 (水)

西部劇とガンブーム

Img_0049モデルガンと西部劇映画の看板

昭和30年を挟んで西部劇映画の黄金時代がありました。中でも感動的な「シェーン(昭和28年)」や「OK牧場の決闘(30年)」など、繰り返して見た人たちもおり、古くは「幌馬車(12年)」、「真昼の決闘(ハイヌーン 27年)」のような映画史に残るシーンもありました。

西部劇は日本のチャンバラと同様に子供たちの人気になったとともに日本にガンブームを巻き起こしました。モデルガンは精巧に作られており、値段も高くとても子供たちの小遣いでは買えるものではありませんが、大人たちが夢中になってコレクションを楽しみました。子供たちは割り箸で造ったゴム鉄砲や形だけのおもちゃのガンを腰につけて、早撃ちの真似をしたりして夢中になって遊んだものです。

西部劇は本来アメリカの西部開拓史がベースになっていますが、ヨーロッパにも飛び火してイタリアでも「荒野の用心棒(昭和39年)」がつくられて大ヒット、マカロニウェスタンなどと呼ばれました。


2012年4月24日 (火)

これがシネラマだ

Img_0045「これがシネラマだ」のパンフレット

昭和30年1月に、東京の帝国劇場と大阪のOS劇場で同時に「これがシネラマだ」を上映して新しい大型映画の幕開けとなりました。

まず驚くのがそのスクリーンのスケールで客席から見て人間の左右の視覚と同じ146度の広さを持つ湾曲したスクリーンは横幅約21m、高さ約8m、スクリーンの裏に5個のスピーカーが並び客席の背後にからも音響が響き渡って、3台の映写機が3分割した映像を同時に映し出しています。

第一作目の「これがシネラマだ」は最初に画面はガンガンと言う音響とともに視野が広がりディズニーランドの「ローラーコースター(現在のジェットコースター)」の頂点に達したかと思うと目がくらむような奈落の底目掛けて一気に落ちて行きます。観客は思わず座席にしがみついて絶叫をあげました。まだ、日本では誰も経験したことがないジェットコースターのスリルを味わうことになります。(上のパンフレット写真はその例)

次にジェット機のコックピットに置いたカメラが捉えた映像は音速で飛ぶ不思議な体験をさせてくれます。川下りのゴムボートの先端にセットしたカメラの映像は頭から降りそそぐ水しぶきに思わず頭を避けようとして隣の人とがちんこ。

このスリリングな体験は第二作の「シネラマ・ホリディ」、さらに「世界の七不思議」「世界の楽園」などの作品へと続いて行きました。さらに「シネラマ劇映画」へと発展しますが、問題は撮影に費用がかかること(実は三枚の画面の継ぎ目のちらつきの方が問題?)から、横幅の広いシネマスコープへと移って行きます。その第一作が「聖衣」でした。そして70mm映画「十戒」「クレオパトラ」「西部開拓史」などに移って行きます。


2012年4月23日 (月)

広辞林が出版されて57年

Img_0044手元にある辞書を並べてみました

昭和30年に岩波書店から「広辞苑」が出版されました。これに続いて下記のように数社から辞書が出されて平成まで続きました。

平成年間になると「電卓」から「電子辞書」へと進化して、辞書だけではなく、ビジネス、家庭、実用書、学習参考書 外国語など膨大な内容を持つコンパクトなサイズになってきました。

そして、平成20年に第6版の発行となりました。

ご存じの方も多いと思いますが、「広辞苑」の源流は昭和10年の「辭苑(新村出編)」で、70年を超える歴史があります。

参考までに昭和初期から発行された辞書の一部を列挙してみました。(昭和15年発行の「図書分類目録」参照)

書名        編者       出版社      初版       定価

大言海(全5巻)  大槻文彦     冨山房     昭和10年   各6円50銭

辭  苑     新村 出      博文館     昭和10年   4円20銭

廣辭林      金澤庄三郎   三省堂     昭和15年    3円90銭

           -                -

広辞苑      新村 出     岩波書店   昭和30年    7875円(第6版)

:言  林     新村 出      全国書店   昭和32年    1200円

国語大辞典  金田一春彦 他  学習研究社  昭和55年   11000円

日本語大辞典 梅棹 忠夫 他  講談社     平成元年    7300円

大辞林      松村 明 他   三省堂     平成7年     7300円

2012年4月22日 (日)

日本初のトランジスターラジオTR-55

Img_0043TR-55型トランジスターラジオ

昭和30年、東京通信工業(現ソニー)から発売された日本最初のトランジスターラジオです。使用トランジスターは5石、重さ560g、販売価格は18,000円です。当時の公務員の初任給が約1万円でした。

それまでのポータブルラジオは真空管式でかなり重く、電池の消耗が早くて予備を持って行かないとすぐなくなりました。

その頃のトランジスターはまだ完全に実用化されたものではなく、アメリカでも開発途上にありました。東通工がウェスタンエレクトリック社から製造技術を引き継いでゼロから開発を初めています。最初のトランジスターは補聴器に使用できるレベルで、ラジオ(電波)には使えませんでしたが、その量産化に成功、その成果がTR-55でした。

上の写真右下はそのデザインでバックの写真はICR-S1の内部です。

ソニーは、トランジスターそのものを高周波回路に使えるまでに高めた功労者でした。

2012年4月21日 (土)

生活の大革命「自動式電気釜」

Img_0038自動式電気釜(東芝)とタイマー

昭和30年12月に自動式電気釜が発売になりました。

一家の主婦がみんなより早く起きて、釜戸に火をつけるのが日課だった日本人の生活が大きく変わることになります。それは、眠っている間にご飯が炊ける魔法の炊飯器の出現でした。

当時の価格は、2-6炊きが3.200円、1升炊きが4.500円でした。しかし、長屋住まいで家賃が1800円の庶民の生活ではちょっと手が出る買い物ではありません。その上タイマーが1,700円もするとはかなり高価なものです。

主婦が早起きして朝ごはんを作ることは日本に伝えられてきた美しい伝統で、それを破壊することは日本人の文化を覆すものだと唱える人たち(特に年寄りたち)もあってそう簡単には普及しませんでした。

しかし、電気洗濯機などが電気店に並び巷にその便利さが広がってくると次第に普及の輪が拡がり、家電機器生活時代へと移って行くことになります。


2012年4月20日 (金)

国鉄の初乗り運賃が10円だった頃

Img_0037銭湯と初乗り切符

現在使われている一円アルミ貨が発行されたのは昭和30年でした。10円青銅貨(ギザあり)は昭和26年から、5円黄銅貨(最初は穴なし)は昭和23年でした。

昭和30年頃はこれらの貨幣が日常的に使われていたので、下記に当時の10円を中心にした物価の代表的な例を挙げて見ました。

右上の2枚の写真はその頃の銭湯の様子ですが、大人の入浴料金(東京の例)が昭和23年まで10円でした。それが段階的に上がって昭和32年に16円になり、40年には28円になっています。そして50年には100円になりました。

下のは国鉄の初乗り切符の例ですが、どちらも10円になっています。これも、昭和24年までは5円でしたが、26年から10円になりました。(41年に20円)入場券も40年まで10円でした。

下記に,昭和30年頃の代表的な物の値段を挙げて見ました。

   はがき  5円     封書  10円    

   都電   10円     都バス 15円

   私鉄   10円   

   公衆電話 10円(昭和56年まで)

   鉛筆  28年頃から10円  

   たいやき  10円

   コロッケ   10円 

   駄菓子    10円 など

                       (値段の風俗史より)   


2012年4月19日 (木)

日本住宅公団設立

Img_0032柏市に完成したニュータウン光が丘団地

昭和30年に日本住宅公団が不燃性集合住宅の建築に着手、上の写真はその第一段になった柏市の光が丘団地(昭和32年)の一部です。全戸数約1000戸、2DK、ステンレスのキッチンセット、鋼鉄製ドアにはシリンダー錠、水洗トイレ、バスユニット付き、家賃4000円。

入居するには、月収16000円以上が条件、なんとかとどいても次のステップは20倍以上の抽選が。何度かのアタックでやっと夢のマイホームに入ってびっくり、いわゆる団地サイズの間取りは持ち込んだ家具だけでいっぱいに・・・・・。

通勤は、最寄りの駅から徒歩20分、団地内にはまだ商店がありませんでした。

やがて、関西の千里ニュータウン、東京の多摩ニュウタウン、昭和45年には全国に公団住宅が50万戸を突破しました。

2012年4月18日 (水)

昭和29年の出来事

Img_0030青梅市映画看板通りより(板観画)

[出来事] 東京で育英資金貸付制度創設

       通貨単位を「円」のみとして「銭」を廃止する(帳簿上の取引はそのまま)

       全国に36の新しい市が誕生する

[話 題] 国立東京第一病院で「人間ドッグ」を開始 5泊6日で1200円

      名古屋にテレビ電波塔(180m)完成

      東京に営団地下鉄丸の内線(池袋-御茶ノ水間)開通

      ベニスで日本映画「七人の侍」、「山椒太夫」が銀獅子賞受ける  

      東京・新宿に歌声喫茶「灯」がオープン

[物 価] 家庭用化粧石鹸 25円

[NHK番組] 「やん坊 にん坊 とん坊」 「赤胴鈴の助」

[民放ラジオ] 5秒CM登場 文化放送が午前二時まで深夜便スタート

[テレビCM]  「わっ わっ わ 輪が三つ(みつわ石鹸)」

[スポーツ] 東京・蔵前国技館でアメリカのシャープ兄弟と力道山・木村のプロレス

       東京・芝にゴルフ練習場が開設 2ダース80円

[ファッション] シャネルの5番 ヘップバーンスタイル ロマンスグレー

[流行語] 死の灰 ベビーべッド 空手チョップ

[新会社] 光文社・カッパブックス

[新商品] 明治製菓の「缶入りジュース 明治天然オレンジジュース」

       女の子向け「ミルク飲み人形」 一揃いで1200円

       旭光学工業から「アサヒフレックスⅡB型」発売

       サンウェーブがステンレス製の流し台セット発売

[流行歌] お富さん 岸壁の母 高原列車は行く ひばりのマドロスさん

[映 画]  二十四の瞳 女の園 七人の侍 近松物語 ローマの休日 ゴジラ

[出 版]  女性に関する十二章(伊藤整) 潮騒(三島由紀夫)
 

2012年4月17日 (火)

一眼レフの突破口を開いたアサヒフレックス

Img_0028アサヒフレックスⅡB型

昭和25年のリコーフレックスが二眼レフを発売してカメラの初心者をブームに巻き込んだようにアサヒフレックスⅡB型はプロのカメラマンたちを一眼レフへの魅力に引き込む大きな影響力になりました。

日本で初めて35mmフィルムの一眼レフカメラ{アサヒフレックスⅠ型}を発売したのは旭光学で、昭和27年でした。それはプロのカメラマンが切望していた一眼レフカメラの幕開けになり、日本国内だけでなく、おそらく世界のカメラ関係者が一斉に注目したと思われます。

一組みのレンズを通して見る被写体をそのままシャッターを切ってフィルムに収めることができるミラー方式の誕生です。この段階では、シャッターを切るとミラーが跳ねあがってファインダーが真っ暗になります。そのためにはミラーを元にもどすメカニズムが必要でした。

昭和29年に発売したⅡB型に新たに開発したクィックミラー方式を採り入れ、さらに昭和32年のペンタプリズムの出現で一眼レフの基礎が完成します。

話がマニアックになって申し訳けありませんが、この一眼レフカメラの完成によってその後の日本のカメラ業界が世界をリードすることになります。


2012年4月16日 (月)

テレビは「プロレス」、映画は「ゴジラ」

Img_0029「プロレス」「ゴジラ」ブーム

昭和のテレビ時代は「プロレス」からスタートしました。昭和29年2月19日、人々は街頭テレビに映し出されたプロレス中継にくぎ付けになりました。しかも、3夜連続の力道山対シャープ兄弟の世界タッグマッチ選手権は初めて見る日本人は寒さを忘れて立ち尽くしました。

昭和28年にテレビ放送が始まったものの1台10万円をはるかに超える受像機は、電気屋の店頭に並んでいる画面を見るだけ、子供たちは帰るのを忘れて見入りました。

日本テレビでは、送信用テレビアンテナを立ててなんとか関東地方に電波は届くようにしましたが、肝心の受像機が家庭にはなく、年内に新橋、新宿、上野駅前などに何十台かを設置するのがやっとでした。

昭和30年の新橋駅西口広場には「プロレス中継」を見るために1万人を超える人たちが立ち尽くしたほどでした。

昭和29年のもう一つ話題は映画「ゴジラ」でした。これはゴジラシリーズの第一作で、日本の怪獣もののルーツになる歴史的作品です。最初はモノクロで映写時間97分、画面も標準サイズでしたが、ビキニ環礁の海底に眠っていた原始時代の怪獣ゴジラが水爆実験で目を覚ましたと言う想定は子供たちだけではなく大人にも興味をそそるドラマでした。

その怪獣「ゴジラ」が東京に現れるとあっては是非もので、封切りとともに空前の大ヒットで封切館では2時間待ちとなりました。さらに「ゴジラの逆襲」など次々続編が造られ、海外にも輪が広がって行くことになります。

2012年4月15日 (日)

名古屋のテレビ塔

Img_0022日本最初の名古屋テレビ塔

昭和29年に竣工した名古屋のテレビ塔で、50年間、名古屋を中心に50km圏内にアナログTV電波をはじめ各種の電波を送り続けました。周囲の写真は100mのスカイバルコニーから景観です。(パンフレットより)東は鳳来寺山や恵那山、西は御在所山、北はアルプスの山々、南は伊良湖岬や渥美半島まで望めます。

高さ180m(総重量3,300t)は昭和33年に東京タワーが出来るまでは日本で第1位でした。平成17年に有形文化財に指定され、アナログ放送の終了とともに「恋人たちの聖地」として残されております。所在地は名古屋市中区錦3丁目にあります。

設計者は、札幌電波塔、東京タワーと同じ内藤多仲氏によるものです。

2012年4月14日 (土)

昭和28年の話題

Img_0023高嶺の花だった街頭テレビ(合成写真)

[出来事] 日本銀行から百円紙幣(板垣退助像)発行

      十円硬貨発行(宇治平等院)

      NHKで東京地区のテレビジョン(白黒)放送開始(2月)1日4時間

      民放テレビはNTVで8月から

[話 題] 東京・三鷹の天文台に電波望遠鏡(口径10m)完成

      東京に移動式遊園地(コニーアイランド)を設置、ジェットコースターが人気に

      東京・青山に紀伊国屋が日本初のスーパーマーケットをオープン

 

[NHK]    テレビ視聴料月額200円 

      テレビ中継で紅白歌合戦を大晦日に中継(日劇から)

      テレビで「バラエティー番組ジェスチャー」を放送開始

      「ラジオ体操の会」を全国巡回を始める

[民放テレビ] CM「カステラ一番 電話は二番 三時のおやつは文明堂」

      「精工舎の時計が○○時をお知らせします」「ゴホンと言えば龍角散」

[スポーツ]山田敬蔵がボストンマラソンで優勝 2時間18分51秒

[ファッション] フランスのデザイナー クリスチャン・ディオール来日 八頭身(伊東絹子)

[流行語] マンボ さいざんす むちゃくちゃでござりますがな プラスアルファ 洗脳

[新会社設立] 国際電々(KDD) オリエンタル 東亜航空

[新商品] シャープが国産テレビ(14型17万5千円) 三洋電機から噴流型洗濯機発売

       蛍光灯 マジックインク お茶漬けのり オロナイン軟膏

[流行歌] 雪の降る街を 毒消しゃいらんかね 街のサンドイッチマン 象さん

[映 画] 君の名は ひめゆりの塔 煙突の見える場所 にごりえ 東京物語

      ローマの休日 ライムライト シェーン 禁じられた遊び シネマスコープ「聖衣」

[出 版] 芥川龍之介集 第二の性 アンネの日記

     

2012年4月13日 (金)

マジックインキはフェルトペンの革命児

Img_0348昭和生まれの革命児「マジックインキ」

昭和28年4月、突如として誕生した「マジックインキ」は、その後の筆記具の革命的な存在になりました。

それまでの手描きポスターは、墨汁をたっぷりと含ませた毛筆で一気に書き上げるのが常識で、かすれた部分を補正したり、乾かない内に壁に貼ってたらたらと墨汁が滴る失敗は誰もが経験したことでした。そんな中に「マジックインク」は救世主の如く現れて、その存在は日本中に広がりました。

紙や木の板だけでなく、ガラス、陶器、布、プラスチックなど、何にでもくつきりと書けて、滲まない、たれない、かすれない、そしてすぐ乾き、こすっても落ちない。こんな夢のような筆記具になりました。

その名を「マジックインキ」としたように、まず速乾性のインキの開発から着手、そしてよどみなく流れ出るフェルトのペン先、蒸発しない容器など一つ一つクリアしながらの努力は寺西社長と内田洋行社長の涙ぐましい物語に集約されます。(マジックインキ誕生物語参照)

現在では、どこの家庭にも置かれでいる「マジックインキ」はその後のフェルトペンの歴史を大きく変えることになりますが、「マーキングペン」「サインペン」「ラインマーカー」「ホワイトボードマーカー」などと発展して、インキも油性と水性に分かれて使い勝手が広がって行きます。

2012年4月12日 (木)

公衆電話ボックスに青電話機設置

Img_0018公衆電話ボックスの青電話機(右)と赤電話機

NTTでは、昭和28年に公衆電話ボックス内にボタン式硬貨後納式の青電話を設置します。これは、ダイヤルを回して相手が電話に出たことを確認してからボタンを押し10秒以内にコインを入れるという面倒なもので評判が悪く、3年後に前払い式に改善しましすが、市外通話はできませんでした。上記の写真は昭和43年の大形青電話機で110番と119番の緊急ダイヤルは無料で別ユニットになっていました。

左の赤電話機は昭和30年からたばこ店なと゜に置かれたのもので(当時ものは小型)、写真の電話機は大型になって(昭和40年から)商店などの店頭に置いて市外通話もかけられました。駅前の公衆電話コーナーなどにも設置されて若者たちの人気を呼び風物詩にもなっていました。

2012年4月11日 (水)

テレビジョンCMの日

Img_0014テレビCM第一号と言われた画面の一部

昭和28年8月28日は、日本の民放テレビが放送を開始した日でこの日を「テレビCMの日」と呼ばれています。上の写真はその時にテレビ電波に乗って家庭のテレビに送られた画面の例です。

これより、2年前の昭和26年9月1日にラジオの民間放送(中部日本放送)がスタートしています。その日の朝の7時に「精工舎の時計が7時をお知らせします」と言うアナウンサーの声の後に時報が鳴りました。

この時は午前6時30分に放送が始まってその時間の中で服飾講座と言うプログラムが五金洋品(スモカ歯磨の説もある)と言うスポンサーの名前で入っており、精工舎がラジオCMの第一号になれませんでしたが、このCMはその後のラジオの中で繰り返していますから皆さんの耳にはおなじみになっていました。CMはスポンサーがその時間を買って声または音楽などを入れるもので初期の頃は20秒で3000円などと言うような料金設定がありました。

テレビ放送になってもそのシステムは同じで、CM料金は時間帯や内容によって複雑になって行きます。

テレビの場合は、スポンサーがテレビ局との間でCMを入れたい時間を契約するとともに、映像プログラムを作って事前に用意をして置かなければなりません。(この費用は全額スポンサー持ち)

上の画面は「精工舎が○○時をお知らせします」と言う有名な場面でテレビCM第一号と言われるものです。初期の頃はは映画フィルムを使用していましたが、記念すべき第一日目に間違えてフィルムを裏返しにセットしたため、音声が出なかったと言うハプニングがありました。

右上の切手は「20世紀デザイン切手」のものです


2012年4月10日 (火)

昭和27年の話題

Img_0011「鉄腕アトム」の連載が始まる

[出来事] 物品統制令で発売が制限されていた小麦粉と砂糖が自由販売になる

      日航機「もく星号」が大島の三原山に墜落、乗員全員死亡

 

             日本テレビ放送網らがテレビジョンの予備免許を申請 試験放送開始

      東京に二本のポールを立てたトロリーバスがお目見え

[話 題] 東京に初のボーリング場がオープン

      兵庫県・宝塚温泉にジェットコースターが設置される

      手塚治虫の「鉄腕アトム」の連載開始

      街にシーソー運動を繰り返す「水飲み鳥(後のハッピーバード)」がブームになる

[NHK 番組] NHKのラジオ受信契約数が一千万を超える

      10月、テレビで大相撲秋場所の中継、神宮球場から六大学野球中継を実施

      第一放送(左チャンネル)と第二放送(右チャンネル)でステレオ放送の実験

      連続ラジオドラマ「君の名は」 「笛吹き童子」、「二十の扉(テレビと同時)」開始

[民放ラジオ] CM「精工舎の時計が○○時をお知らせします」

      CMソング「僕はアマチュアカメラマン(小西六)」

[スポーツ] 白井義男がボクシングフライ級で勝利、世界チャンピオンになる

       大相撲秋場所から四本柱をテレビ中継のため撤去、大屋根を天井から吊るす

[ファッション] 真知子巻き(君の名はより) ナイロン・ブラウス

[流行語] スクーター 恐妻家 空飛ぶ円盤 火炎ビン エッチ

[新会社設立]  日本電信電話公社設立(NTT) 永谷園 富士重工

[新商品] 本田バイク「カブ」 シームレス・ストッキング マックス「ホッチキス」

       不二家「ソフトクリーム」

[流行歌] りんご追分 赤いランプの終列車 テネシーワルツ 弥太郎笠

[映 画] 生きる 山びこ学校 禁じられた遊び 風と共に去りぬ 第三の男

[出 版] 千羽鶴(川端康成) 三等重役(源氏鶏太) 二十四の瞳(壺井栄)

     

2012年4月 9日 (月)

スクーターはラビットから始まった

Img_0010車道にあふれたスクーターのオンパレード

子供が片足で地面を蹴って進むキックスケーターは三輪車よりスピードがあって小学生の高学年まで遊びましたが、これに小型エンジンを取り付けたのが立ち乗りスケーターで、1947年に日本の富士工業が「ラビット」として発売され、両足を揃えて簡単に乗れることとわりに広い座席があることから女性にも「ラビットスクーター」として人気が高まりました。

その頃、原動機付き自転車もありましたが、従来のオートバイより乗り降りが楽で、なんといっても自動車より価格が安い手軽に乗れる乗り物に普及に拍車をかけました。

1950年代には、三光工業の「ジェット」、宮田製作所の「ミヤペット」なども参入して来ましたが、スクーターの市場として「ラビット」と「シルバービジョン」が大きくリードしました。

1960年代になると四輪駆動車が急速に普及して一時期はスクーターが影をひそめる時期もありましたが、1976年頃、ホンダの「ラッタッタ」などの出現でソフトバイク時代が到来して女性がスカートのまま足を乗せられるスクーターブームの再燃になりました。

2012年4月 8日 (日)

東京にもトロリーバスが走った

Img_0009トロリーポールをつけた電気自動車(京都)

東京都内に初めてトロリー乗合バスが走ったのは昭和27年でした。今川橋ー上野公園間を15円で走りました。バスと言っても電気で動きますから運転手と男性車掌がおり、その後昭和30年に池袋ー千駄ヶ谷間、43年には池袋ー渋谷間にも開通しますが、乗客数の増大と大型の乗合自動車の出現で採算が合わず16年間の営業運転で終了しています。

上の写真は、昭和7年に東京市で使う予定だったトロリーバスの第一号が京都市内に回されて、架線をめぐらせた道路を運行しているところで、線路が不要なことは運転に自由度がありましたが、架線ポールが屋根に二本あって、バックする際にはずれやすく、風雨や積雪に弱いなどの欠点がありました。

明治時代の路面電車にも当初は2本のポールがありましたが、途中から帰線(マイナス用)をレールに置き換えて1本になりました。


2012年4月 7日 (土)

日本のボーリングの変遷

Img_0008東京・青山に出来たボーリング場

ボーリングの日本の歴史をたどると1861年に長崎に設けられたのが最初と言われています。たまたまこの日が6月22日であったので日本ではこの日を「ボーリングの日」としました。その頃は、現在のより小規模でピンボーイが10本のピンを手で並べていました。

昭和27年に、明治神宮外苑の野球場に隣に本格的なボーリング場が設置されています。当時は主に駐留していたアメリカの将兵や家族のための施設で、現在は機械産業記念事業団の建物になっていろいろな催し物が開催されています。

昭和34年に東京・晴海会場で「国際見本市」が開かれた時に「ボーリング」のレーンが設けられて日本人には初めてのお披露目になりました。(この会場で最も注目されたのはアメリカ製の小型原子炉の炉心の模型だった)

昭和39年に、日本ボーリング連盟が世界組織のFIQに加盟して一挙にボーリング熱が高まります。そして、スコアを自動的に集計してくれる装置が備えられ、昭和45年頃には日本列島に3880のセンターが造られました。


2012年4月 5日 (木)

ホッチキスは100年前に使っていた

Img_0359明治36年に輸入されたホッチキス

現在では会社や学校だけでなく、日常的に家庭でも使われているホッチキスは明治の後期に伊藤喜商店(現イトーキ)に輸入されて、ステープラーと呼ばれていました。

その頃の官公庁の書類は和紙が使われて「こより」で綴じるのが正式でしたから、横文字の書類に使用されていたと思われます。ホッチキスと言うのは機関銃の発明者の名前と言う説もありますが、綴じるための刃をステープルと言い日本語では紙綴じ器と呼びました。

昭和に入って戦争になると金属の回収が盛んになって当然ステープルも不足して、使い道がなくなりました。戦争が終わって昭和21年に山田興業(現マックス)がホッチキスの製造を開始して簡単に片手で使えるホッチキス「SYC-10」を200円で発売しましたが、生活に追われていた市場にはすぐ受け入れてもらえなかったようです。

そして、昭和29年にマックスと言う社名の変更とともに写真下の「MAX-10」を発売しました。ステープラ → ホッチキス → マックスと呼び名を変えた紙綴じ器はその後デザインもカラフルになってオフイスでは1人1個が常識になり、一般家庭用から学用品にまで用途が広がり、「フラットリンチ」と言うスマートな仕上がりまでが考えられて日々進化して日常生活の必需品になりました。

2012年4月 4日 (水)

戦前の土俵には四本柱があった

Img_0346四本柱があった土俵(旧国技館)

昔の大相撲の土俵には太い四本柱が立っていて力士が鉄砲突きをやってもびくともしませんでした。昭和27年秋場所からにNHKテレビ(モノクロ)が中継することになって、カメラの邪魔になるので天井からロープで下げる吊り屋根になりました。柱にはそれぞれ青色、赤色、白色、黒色の布が巻かれて四季の神様を表しておりましたが、それらに代わる大きな四色の房が四方に提げられました。

これは、伝統を大切にする相撲協会の大英断でしたが、昭和2年のラジオ放送を開始する時にもそれまでのしきたりを変えた部分がありました。その一つが制限時間の取り決めで、呼び出しがそれぞれの力士の四股名を読み上げて行司が軍配を中に入れて二人を合わせてからお互いの呼吸がぴったりと合うまで何回でも仕切り直しができました。しかし、ラジオ放送には時間が限られますからNHK側の要望を入れて、幕内力士は十分、幕下力士は五分とし、時間係りの親方を設けました(戦後はさらに短縮して幕内力士四分、十両力士三分になる)。

さらに、土俵中央に白いペンキで仕切り線を引き、二重になっていた土俵をメートル法の4.55mの一重だけにするなど大改革が行われました。

2012年4月 3日 (火)

昭和25年頃のセルフクリーニング店

Img_0345当時のセルフクリーニング店の例

上の写真は昭和25年頃にあったセルフクリーニング店の例です。よく見ると通常の電気洗濯機が数台並んでいて「30分50円」とガラス戸に書かれています。使っているのは一般の主婦や独身サラリーマンのようです。特に品目別に時間がかかるものは割引料金もあるようですが、家族が多い場合は洗いと濯ぎだけでもかなり時間がかかりました。

当時の電気洗濯機(上の写真のもの)は2万円台で公務員の初任給がやっと7千円ぐらいでしたからまだまだ高嶺の花でした。

やがて池田内閣が掲げた「国民所得倍増計画」に乗って高度経済成長時代が到来、神武景気から岩戸景気になり、家電製品が三種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビジョン)と呼ばれるようになるのは、昭和30年代になってからです。

2012年4月 2日 (月)

昭和26年の話題

Img_0340琺瑯看板とプラスチック製ままごとセットの例

[出来事] 日米安保条約調印

       朝鮮戦争終結

       度量衡法(尺貫法)を廃止して計量法(メートル法)を公布

       日銀が五百円札(岩倉具視像)と五十円札(高橋是清像)を発行

[話 題] 国鉄の最低乗車料金を10円に、都営乗合バスは15円になる

      民間航空会社「日本航空」設立、羽田飛行場より一番機が離陸

      民間放送「東京放送」「中部放送」「新日本放送」が放送開始

      公衆電話に赤電話機の登場

[NHK 番組] 「第一回紅白歌合戦」をスタジオから放送 「三つの歌(20年間続く)」

      5月5日 新国民体操(ラジオ体操第一)を放送開始

[スポーツ] ボストンマラソンに戦後初めて日本人が参加、田中茂樹が初優勝

[新会社設立] 9電力会社発足 日本航空 ミサワホーム

[新商品] 日本初のLPレコード、EPレコード登場

      東通工(現ソニー)からホームテープレコーダー(84、000円)を発売

      プラスチック製ままごとセット発売

      本田技研が4サイクルオートバイ「ドリーム号E型」発売

      不二家から「ミルキー」発売(ペコちゃん,ポコちゃんパッケージ)

[ファッション] VANジャケット アイビールック GIカット

[流行語] 老兵は死なず ノーコメント ショルダーバッグ 三等重役

      親指族 社用族 

[映 画] どっこい生きている 麦秋 自由学校 黄色いリボン バンビ イヴの総て

      「羅生門」がヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞

[出 版] 新平家物語(吉川英治) ノンちゃん雲に乗る(石井桃子)

      源氏物語(谷崎潤一郎 現代語訳) やまびこ学校(無着成恭)

2012年4月 1日 (日)

テープレコーダーの発達

Img_0336テープレコーダーの歴史

上の大きい写真は1933年頃にベルリン放送局で使用されていた磁気式テープレコーダーで。テープは薄い鋼鉄製が使われ、リールの直径が約50cm、機器の総重量は1t以上ありました。音質は人間の声が録音できる程度で放送内容を記録するために使われたと思われます。(NHKにも1台あって海外放送用に使われたようです)

左下は1951年に東通工(現ソニー)が発売した我が国最初の本格的な家庭用磁気式テープレコーダーで84.000円でした。官公庁、学校などでは積極的に使われ次第に価格も下がって行きますが、後に現れるカセットテープが主流になってリール方式は業務用に移って、ビデオやコンピューター業界で活躍することになります。

1960年頃になるとデジタル技術が主流になり、CD(コンパクトディスク)を媒体としたシステムに転換、オーディオ分野から、ビデオ方面、さらにコンピュター機器にまで拡がり、磁気記録方式は急速に消えて行きます。

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